鞆の浦 広島(悔しい改題の訳とは・・・)
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平成版いろは丸(仙酔島にて)
【序章】
司馬遼太郎著「竜馬がゆく」(文集文庫)第七巻226頁から53ページに渡って「いろは丸」についての執筆がある。
1866年、長崎県潮合崎沖にて暴風雨により木造船のワイルウエフ号を失い、同時に池内蔵太という重要人物を失った竜馬だったが、その翌年の1867年には初めての蒸気船アビゾ号(いろは丸)を広島県宇治島沖にて紀州藩明光丸との衝突事故で再び失ってしまう。
原因は紀州藩の操舵技術の未熟さによる一方的な海難事故であったが、徳川御三家である大藩の紀州藩は知らぬ存ぜぬで押し通す事で面子を守る行動に出た。
当時が太平の世ならば紀州藩に逆らう事は即ち徳川幕府に弓引くも同じとして即刻お家取り潰しの上、死罪遠島は免れない時代であった。
ところが世の中は幕末。
江戸幕府衰退の乱世であり、フランス・ロシア・米国の艦隊による開国強要を迫られていた幕府に不満を持つ尊皇攘夷論が飛翔した時勢。
かつて生麦事件に端を発した薩英戦争にてイギリスに大敗した薩摩藩がそのイギリスに頭を下げてなりふり構わず最新西洋技術を取り込む事で自藩の武装強化を計っていた頃、幕府は諸藩に号令するだけの実態を伴わない衰退が進んでいた。
このまま幕府の進めるフランス一任主義に甘んじていたのではアヘンで滅ぼされた支那同様にこのニッポン国も占領下に置かれ植民地化してしまうと憂いた攘夷国家論者である薩摩藩・長州藩・土佐藩がまさに決起してゆく過程での竜馬の役割は大きかった。
しかし土佐藩がまだ「掛川の衆」に拘り250年以上も前の関ヶ原の戦いにて恩恵を受けた徳川家に対して鉾を向ける自藩の志士に激しい弾圧を加えることで早々に見限り脱藩していた竜馬であったが、今度は浪人という立場で薩・長・土の密約を進めたのだった。
その手法はこうだ。
「武力を持って制する」では各藩統一に必須の連携が育たない。
ならば「経済を持って和とする」を軸に「侍でありながら商人」を貫き、平時は諸藩間の物資輸送、有事は軍艦として船を活用する作戦に出たのだ。
その経済活動の一端であった今回の船舶事故は「日本国初の海難事故」として万国公法を持って雄藩にもの申す特筆すべき事態であった。
そして同時に衝突した瞬間に嘆くより先にこれから始まる言動をつぶさに記録させたり航海日誌を差し押さえるなど船長指揮官として日本の航海術の最先端を走る竜馬であった。
知らぬ存ぜぬで通していた紀州藩は航海記録の英訳文を英艦隊長官に開示して是非を問うも「残念ながら紀州藩に勝ち目はない」との結論を受領する事で竜馬暗殺を狙う。
しかし今度は土佐藩参政である後藤象二郎が「藩」として割り込む事で雄藩対浪人集団の交渉が雄藩対大藩としての重みを持たせることになる。
こうした結びつきこそがその後の倒幕に傾倒する大きなエネルギーとなるのである。
「船を沈めた償いは金を取らずに国を取る」
竜馬が唄ったこの節は日頃狡猾な武士層に対して不満を抱いていた町人・下層武士らに強く響き渡り、かつて絶対的な権力を行使していた雄藩を次第に窮地に追いやっていった。
そして最終的に高額な賠償金を飲まされる形となった紀州藩の大敗で幕引きとなったのであった。
この事件を機に万国公法(現在の国際法)を翻訳し日本へ広める一端を担った海援隊であったが、そもそもの原著を早くから輸入し今後の国際社会に備えるべきと律した幕閣である勝海舟が存在したからこそ、その愛弟子である竜馬が反政府活動を遂行できたという皮肉な歴史がある。
この事件の6年前にはすでに咸臨丸にて渡米を果たし異国情勢を見聞して回った勝海舟だからこそ、現状の幕府の朽ちた屋台骨を見抜き、国際社会の仲間入りを可能にする三権分立社会創生を竜馬に託す事が出来たのだろう。
それから120年後の1988年。
広島県福山市の鞆の浦沖15km水深27mの海底で沈没船を発見。
長い年月を費やした調査の結果、2010年にいろは丸で間違いないことが立証された。
現在、鞆の浦には「いろは丸展示館」が常設され、当時のいろは丸を模した市営の仙酔島行き渡船が就航している。
そしてその展示館にはいろは丸から引き上げられた品々の展示に混じって、実際に海底から引き上げた燃料である石炭が募金の対価として配布されている。
引き続き海底に沈んだ船の引き上げや解析に要する費用としての寄付金を募ることで、120年前に沈んだ実際の石炭をその対価としているのだ。
何とロマン溢れる所業ではないか!!
陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)の模造刀を手に入れたときは至福の時を味わった。
竜馬と同じ名刀(もどきだけど)を抱えながら権力とは、武力とは、民力とはについて読み進める事で竜馬と同じ時間を過ごしている感覚に陥っては満足していた。
今度は模造ではない本物の遺品だ!(いや、遺品と呼ばせておくれよ!)
今回の記事はまさしくそのお宝を手に入れるために行脚した記録である・・・・ハズだったのだがとんだ茶番とドタバタの物語である。
【2020年10月】
とある朝のこと、朝食をのんびりと摂りながら何気に見ていたワイドショーでコロナ対策のGOTOキャンペーンと併用できる「広島県誘客促進支援」というのを紹介していた。
今年の初めに長崎県(長崎)・山口県(萩)・広島県(鞆の浦)を旅行する計画を立てていたもののコロナと九州水害のアオリで断念したまま10月を迎えていたのだ。
「をっ?」と注目してみたらANA主催の企画で、羽田⇔広島+ホテル=1万円前後で旅行に行けるとの事。
「何ぃ〜!?」と急いでPCを立ち上げ検索する。
広島県が助成金を拠出して「広島県旅行割引プラン」との企画を発し「ひとり最大15,000円割引」をぶちあげたのだ。
「新型コロナウイルスの影響で落ち込んだ観光業の応援のため、広島県内への旅行がお得にできる「広島県旅行割引プラン」を実施します。広島県内でのご旅行をお楽しみください!」
とまぁ、県内観光を促進する文言を並べていた。
これだ!!
これを逃してはこんな格安な旅は出来まい!
長崎・山口・広島を同時に旅行する計画を立てていた時点で費用工面には難儀していた。
それに長崎の豪雨被害が収束しないうちは実行も出来ない。
昨年10月の豪雨被害に遭った恐怖を覚えている千葉県人としては居た堪れない気持ちだった。
そっか、別々に訪問すればいいんだ!(お金さえ工面できれば)
鞆の浦は日帰りで萩に向かう計画をしていたので、これなら一泊して十分に楽しめる!と。
早々にANAトラベラーズのサイトから予約に入る。
が、広島県は東西に約120kmの広大な面積を有しているので下手に申し込めない。
県のほぼ中央に位置する広島空港だが、原爆ドームのある広島市はほぼ西側(ほぼ山口県)。
そして福山市から南下する鞆の浦はほぼ東側(ほぼ岡山県)に位置しその距離は100km以上離れている。
サイトを駆け回りやっと新幹線福山駅に隣接するホテルを発見。
JR福山駅から徒歩1分で鞆の浦行きバス停にも隣接する福山ニューキャッスルホテルを選択する。
日程は・・・・。
11月の第二週に京都旅行を計画済みなのでさすがに翌週は止めておこう。
翌々週の平日・・・24〜26日の出発にしよう。
・・・って事で、
ANAトラベラーズ
商品名:広島へ行こう!(10−1月)2日間(羽田発)
羽田出発日 2020年11月25日(水)
ANA679便 羽田13:15− 広島14:45
広島出発日 2020年11月26日(木)
ANA682便 広島17:10− 羽田18:35
旅行代金 11,300円
無計画ならば、
往路20,790+宿泊12,182+復路20,690=53,662円
のところを早期割引やらANA旅行キャンペーンやらも含めたGOTOトラベル+広島県誘客促進支援で合計11,300円。
冗談みたいな金額だ。
しかもここから地域共通クーポンが3,000円分使えるので実質8,300円。
往復の飛行機代+ホテル宿泊代が8,300円って・・・やっぱ冗談みたいな金額だ・・・。
さて、スケジュールを引いてみよう。
2020年11月25日(水)
10:00 自宅出発
11:35 羽田空港着
13:15 離陸
14:45 広島空港着
15:25 リムジンバス出発
16:30 福山駅到着
16:40 福山ニューキャッスルホテル チェックイン
(一人宴会)
2020年11月26日(木)
06:00 起床
06:30 福山ニューキャッスルホテル チェックアウト
07:00 鞆港行きバス出発
07:37 鞆港到着
終点「鞆港(ともみなと)」バス停の一つ前「鞆バスセンター前」で降車。
08:00 バス停前にある観光センターに寄って資料取得。
08:30 桝屋清右衛門宅
09:10 福山市営渡船(いろは丸)乗船
09:50 下船
10:00 いろは丸展示館開館
13:38 福山駅前行バス出発
14:10 福山駅到着
14:45 リムジンバス出発
15:50 広島空港到着
17:10 離陸
18:35 羽田空港着
【2020年11月25日】
この半月でコロナウィルスの第三波が拡大している。
政府も対応に苦悩しているようで、昨日大阪・札幌ではGOTOキャンペーンの凍結が発表されたが、そもそも国と地方自治体との連携が噛み合ってない訳で日本中が混乱するばかり。
だからと言って急遽延期したい気持ちはあるものの、一ヶ月前に予約した飛行機はキャンセル料の方が高い訳で。
どうにもならないまま儘よと出発。
10:00
自宅から羽田空港へも成田空港へも乗換なしで1本で行ける電車ってとっても便利。
(まぁ殆ど恩恵に預かった事はないが・・・)
ぐっすりと寝ている間に約一時間で第二ターミナル到着。
予定機のトラブルにより代替機に搭乗。
この辺からもう嫌な感じ。
13:15
離陸。
企業の中で現役の開発エンジニアをしてた頃は全国各地が顧客だったので毎週のように飛行機に乗っていた。
南は種子島から北は青森まで国内の殆どの空港に降り立ったものだ。
特に20代の頃は始発で小倉支店の朝9時の朝礼に普通に参加してたり、システム障害復旧に三沢空港を日に2往復したり。
まぁまぁ体力的にも自信はあったわな。
しかし管理職になってからと、退職・起業してからは遠方の現地に向かう事は殆ど無くなった。
だから10数年ぶりに感じる滑走時の機体の細かな振動がとても懐かしく楽しい。
「1千万円のGT-Rなんて買わなくたって数万円で強烈な加速が堪能出来るぜぃ!」を感じていた。
一時間半のフライトはワクワクで一睡も出来ず。(着陸動画→)
離陸して15分後には安定高度を保つ。
今日は気流も穏やかで巡航速度で航行できそうだ。
15:25
高速リムジンバスで山陽自動車道を東へ60km。
福山東ICを降りて約一時間でJR福山駅に到着。
片道1,400円也。
前にも同じ感想を漏らしたが、事前にグーグルマップで周辺の写真を見ていると、行ったこともないのにスタスタ歩けるから不思議な感覚。
バスを降りてから福山ニューキャッスルホテルまで下を向いていても到着出来てしまうからちょっと怖い。
すでに17時なので近くの飲み屋で即宴会の予定ではあったが、引き篭もりからの久しぶりの外出で何だか疲れてしまった。
明日は早いので今日はコンビニで地域共通クーポン券を使い切って済ませてしまおう。
23時就寝。
【2020年11月26日】
05:30
起床。
7時に鞆港行きバスに乗る予定だったが巻いていこう。
始発の06:40に乗る。
県22号をひたすら南下する事30分で終点の一つ前の「鞆バスセンター前」に到着。
530円也。
夕焼けみたいな見事な太陽が映える。
観光案内所もまだ開いていなかったので「桝屋清右衛門宅」を訪れる。
いろは丸と明光丸の衝突事故により取り敢えず寄港した鞆港だが、脱藩の身である竜馬は常に偽名を使って往来してたため、各地で勤王派を匿ってくれる庄屋級の人物が存在していた。
清右衛門もそんな一人で、廻船問屋として土佐藩や薩摩藩とも交流があった桝屋に寄宿したのだった。
母屋は見学できるのだが、週末の9時からで今日は無理。
まぁ、これは事前に知っていたので外から撮影するだけで終了。
湾沿いに戻ると黒船のマストがこちらに向かってくるのが見えた。
次のターゲットはこれ(→)
いろは丸に乗船する事!
といっても当然ながらいろは丸を模した市営の渡船のこと。
徒歩30秒で船乗り場に到着。
鞆の浦〜仙酔島の約800メートルを20分毎に定期運航している船。
すでに接岸した先程のいろは丸の船頭さんが暇そうにしている。
実際のいろは丸は「全長30間(54.5メートル)/160トン/蒸気機関45馬力」に対して、この船は「全長22メートル/19トン/ディーゼル機関245馬力」と2/5のサイズと1/8の重量というミニミニサイズながら出力は5倍以上の平成版だ。
また本物は蒸気機関駆動の大型外輪が装着された威風堂々の様相であったが、現代版は保安上の理由で未装着となっている。
まぁ、そこはほれ・・・感覚だよ。
こんな感じの船に竜馬が乗っていたんだなぁ〜・・・・でいいわけよ。
ちなみに当時の船はどれもこれも黒船。
何で?それわね・・・・
まだ製鉄技術が未熟だった1800年代は鋼鉄船は珍しく、帆船はもちろん殆どの汽船も木製。
木材が海水によって腐食したら壊して作り直せばよかった小型の帆船に比べて汽船は大型で高価な船。
その度に壊していたのではとても採算が合わない。
そこで石炭を高温で精製した粘度の高い液体を生成して防腐剤の代わりにしていた。
これがいわゆるコールタールと呼ばれるコークス(石炭から高濃度の炭素を抽出した塊)を主成分としたタール(液体)である。
黒くて臭いこの液体を全身に塗ることによって腐食を避け、長い航海に耐えたのである。
ちなみに明治から昭和にかけて製造された蒸気機関車の車両も同じコールタールで覆われた黒い車体が多かった。
これも同様に木造の腐食を避ける為にあの独特の真っ黒な臭い車両となっていた訳だ。
(実際に乗車したことのある人のほうがずっと少なくなってる世の中か・・・)
また余談ではあるが、平成いろは丸の喫水線下の赤色は現代の鋼鉄船で使われている防汚剤の主原料である亜酸化銅が赤色なためで、当時の木造船では船底により多くのタールを塗りたくって防汚していたために全身真っ黒の風体であった。
ミニミニとはいえ三本マストも忠実に再現されている。
汽船なのに帆柱(マスト)?
燃料となる石炭も当時は高価な備品。
しかも燃費が悪いから積めるだけ積まなければならない。
だから少しでも節約するために沖に出たらすぐに帆を張って帆船として航海する訳だ。
しかし一度窯の火を落としてしまうと蒸気発生まで何も出来ないただの重い器になってしまう。
よって窯を最小限に焚いたまま帆で進むのだった。
07:40
240円の往復切符を買って乗船。
ところで時刻表が「鞆の浦⇔仙酔島」となっていて「どっちの出港時間なのさ?」って思っていたんだけど仙酔島に着いた瞬間に理解できた。
利用客が下船した瞬間に黒船が離岸したのだ。
えっ?待たないの?
つまり鞆の浦で10分間待機後に5分間で仙酔島に到着、即時5分間で引き返して合計20分。
だから時刻表は「20分毎に鞆の浦から船が出ますよ〜」って事だったのだ。
そうとは知らずに上陸した瞬間に離岸されたもの。
ポツネンと一人岸壁にたたずんで20分間待ったわさ。
同じ船に釣り人1人とおばちゃん1人が同乗してた。
なんで島におばちゃん?と思ったんだけど、5分間の航海の末に着いた仙酔島には国民宿舎があったのだ。
なるほど!その従業員だったのね。
20分後の船には白菜の束が山積されていた。
なるほど、国民宿舎の物資運搬業務も兼ねていたのね。
08:00
いろは丸展示館の開館までまだ2時間以上ある。
かと言って他に見るものはもう無い。
仕方がない・・・・常夜灯の撮影に展示館まで行ってみるか。
湾をグルっと回って5分の散歩。
細い路地を歩いていると国の重要文化財を発見。
尊王攘夷派の公卿7人が鞆に立ち寄った際に休憩した宿だそうな。
公卿7人とは三条実美をはじめとするいわゆる七卿落ち(しちきょうおち)のメンバーだ。
1863年に会津・薩摩藩によって攘夷急進派の公家らを排除すべく「八月十八日の政変」、いわゆる追放クーデターによって三条実美ら7名は都を追われ、長州藩によって保護された。
九死に一生を得ながらも切り抜けた三条実美は政権交代後に内閣総理大臣として幕末動乱を収める政治手腕を発揮した。
新政府樹立に向けて龍馬が人選した最善の策と言われている。
何故なら・・・・
後に同盟した薩長連合による反幕意識は「幕府を武力で討伐し薩長が収める」であり、所詮は「藩」が基軸となっていた。
しかし竜馬は勝海舟らの享受による影響により、すでに海外の実情を感覚で悟っていて郡県制を敷くには「一藩だけ」が権力を施行してしまっては、これまでの権力争いに戻ってしまうと危惧をしてた。
これを回避するためにはもはや不要な官職でありながらも国民意識の中で絶対的存在である「公家」の冠を利用したのだ。
公家を中心に政治を回す事で、一所領に落ちてしまった徳川家も従わざるを得ない環境を整えたのである。
そんな幕末動乱物語の一頁がこんな場所にも存在していたなんて感激である。
そこからすぐの湾先端に常夜灯がある。
現存する江戸時代の灯台としては最大級の大きさであるが、幕末史には関係ないので撮影のみ。
さて、お待ちかねの展示館は常夜灯に隣接した建物。
まだ時間前なので重厚な白い門で閉門されている。
さ〜て、一度観光センターまで歩いて戻ろうかな?・・・と門に貼られた小さい張り紙を眺めて気絶しそうになった。(→)
うっそ〜〜〜ん!!!
うっそ〜〜〜ん!!!
うっそ〜〜〜ん!!!
今月からって!!
いやいやいや、最新のホームページも確認済みで「休館日:年末年始(12月28日〜1月1日)」としか書いてないじゃ〜ん!!
現場に貼ったって意味ないじゃ〜ん!
こんなちり紙みたいな小さい張り紙一枚であたしの夢と希望を打ち砕くんじゃないわよ!!
現物の石炭が欲しいためだけに関東からわざわざ飛行機乗って来たのよ!!
コロナ恐るべし!コロナ憎し!
落ち込んで立ち尽くす事30秒。
いや、落ち込んでる場合じゃない。
ここに居ても状況は変わらないので取り敢えず福山行きのバス停に向かう。
あっ!絶望の余り展示館の外観を撮影するのさえ忘れていた。
涙で滲んだバスの車窓から一枚。
あまりに悔しいからGoogleMapで印つけちゃる!
朝の通勤・通学の人たちと一緒に福山駅へ。
09:00
福山駅到着。
ホテル前のドトールでコーヒータイムしながら思慮。
飛行機出発まであと8時間もある。
すぐにANAに聞いてみるもパッケージ旅行だから便変更は不可との事。
試しに検索したら10時以降の通常料金は片道32,790円!!
改めて往復+宿泊=8千円のパッケージがとんでもない格安料金だと判る。
(片道3千円くらいか?)
さて・・・・3万円とひたすら待ってくれている岳斗を比較したら・・・・そりゃ3万円のほうが惜しいわな!(^_^;
って事で17時まで時間を潰す事にする。
福山城を見学しても精々一時間・・・う〜ん・・・。
そだ!広島と言ったら・・・・原爆ドーム見たいな!
駅員に所要時間を聞いてみると新幹線なら24分との事。
え?そんなに近いの?
まぁ、考えてみりゃ、100kmの距離も時速300km/hなら20分だわな。
すぐに切符を買って10分後に発車するのぞみに乗車。
4,510円也。
乗車している間に原爆ドームへの交通を検索。
いろいろあるようなので面倒になって広島駅のバスターミナルインフォメーションで聞いてみると「その赤いバス乗って!」だけで乗車。
乗ったバスは「中国JRバス」の「めいぷる〜ぷ」という広島観光ループバスというやつでどこまでも200円というシステムだ。
運転手さんに「原爆ドーム前」停留所で降りればよいと聞いたのだが、こちらが観光客と判ると「400円で一日乗り放題ですよ!お得ですよ!」としきりに勧められた。
いや、下調べ無しに来ちゃったんだもの、原爆ドーム以外知らんのじゃけぇ!と丁重にお断りする。
10分ちょっとで原爆ドーム前到着。
本当に目の前にドームが現われた。
が・・・何も見えん・・・・何でものこ9月から保存工事が始まったそうでこの姿なのだそうな・・・・ったくもう・・・・。
幕末地巡礼の旅において、一般観光地を巡ることは殆ど無い。
何故ならばそんな時間が無い事が多いからだ。
誰も行かない山中の草むらを分けた奥にひっそりと建っている墓石やら、通行人の誰もが素通りする20cm四方の石碑やらばかりなので探すのに時間と労を要する。
時には彼の地の観光課の職員でさえも知らない史跡を辿る旅では時間との勝負なのだ。
思い返してもこれまでの旅で一般観光したのは高知市の「はりまや橋」くらいなものか・・・・。
なのに・・・・どうしてこう間が悪いのかしらね・・・・。
戦争反対・原爆禁止の署名活動をしてるおばちゃんが居たので資料館の道を尋ねる。
当然のように住所氏名と引き換えに・・・。
元安橋を渡って最初に見えるのが「原爆の子の像」。
石碑に刻まれた「これはぼくらの叫びです。これは私たちの祈りです。世界に平和をきずくための」は有名だね。
原爆死没者慰霊碑。
死亡した原爆被爆者の全名簿が奉納されており、現在30万人が記載されているそうな。
平和記念資料館は予約制なのだそうな。
尤も平日は空いていてすぐに入館出来た。
200円也。
目を背けたくなる被爆写真や被災物が展示されていて貴重な資料だと感じる。
コロナ禍にも関わらず外国人観光客が多いのはその歴史的所以であろう。
資料館から平和記念公園を一望したところ。
右手奥が原爆ドーム。
広島駅へ続くR183に戻るために再び原爆ドームに向かって元安川を挟んだ公園内を歩く。
修学旅行の小中高生らが多く歩いていて避けるのが大変だ。
その脇の道路を軽自動車のおばちゃんが生活圏として飛ばして抜けていくのだから不思議な世界観に捉われる。
帰りは路面電車に乗ってみよう。
殆ど5分間隔で走っているから便利だ。
市内は一律で190円也。
これを読んでる鉄ちゃんの為に電車のアップも入れておいてあげる♪
13:20発の空港行き高速バスに乗るために一時間ほど時間が出来た。
駅ナカのレストラン街はこの時間もまだ多くの人通りだ。
そこで発見してしまった。
広島焼き。
「広島行ったらお好み焼き食べんさい」と言われていたが、時間的にタイトな旅を予定してたのでそのつもりは無かった。
がしかしこんな想定外の事態になるとは思いもしなかったので時間はたっぷりとある。
しかたがない・・・・食べずには帰れまい・・・・。
焼きそば(?)が入ってるのが普通なのか?よく解らないまま注文。
美味しかったがこれってお好み焼きなのか?疑問を残したまま「広島焼き」として認識する事にした。
って、結局この画像がこの旅のシメなんかい!!
14:30
広島空港到着。
展望デッキでボ〜っと時間を過ごす。
偶然なのか?帰りの機も不具合発生で20分遅れ。
ったくもう〜!
なんとか乗り換え無しで帰宅できる京急に間に合ったが帰宅は21:30。
疲れた〜!
【ポストスクリプト】
一日空けて帰宅した岳斗は素知らぬ顔で寝ていた。
うん、大丈夫だ。こいつはちゃんと生きていけるぞ。
結局使った現金は、高速バス代+鞆の浦までのバス代+一駅の新幹線代+広島焼き代だけだ。
シメて9,000円程度。
安い旅が出来た。
石炭は・・・・来年もGOTOトラベルが延期されていたらリベンジしてみよう。
このサイトの表題を「鞆の浦 広島」と改題させるほど迷惑な疫病だがそのお蔭で広島市にも行けたのだし。
満足という事で!!
(おしまい)
【本当のポストスクリプト】
帰宅後に調査してみると、いろは丸展示館の紹介をしているホームページは多く存在し、それぞれが独立して観光案内をしているものだから突発的な事情等は一切加味されていない現状があった。
あるサイトだけを鵜呑みにして行動しては危険なことを学んだ。
そこでこれから訪れる人々が同じ目に合わないようにと、観光案内しているサイトらに展示館から休館日変更のお知らせをしてみては如何でしょう?の旨の打診をしてみた。
受付のおばちゃんが電話対応してくれていろいろ話をしているうちに「そういう事情なら石炭あげられると思うわよ?館長に聞いてみるからFAX頂戴」とのこと。
高揚で飛び上がりそうになりながらすぐにこれまでの経緯と送金による寄付をしたい旨のお願いをFAXに認めた。
翌日FAX着信確認の電話をしてみると休館日にも関わらず館長さんが出てくれて「発送は約束する」旨を頂いた。
きゃ〜!!嬉しい!!楽しみ〜!!
2020/12/02
GOTOトラベルを2021/06末まで延長する事が政府内で決定された。
これで再訪できる可能性が高くなった事は嬉しいが、一方でお目当ての石炭が手に入ってしまえばその必要も無くなる。
だって彼の地にはもう立ったのだし、展示館の内容は訪問者らのサイトで確認済みだし、ましてその歴史的経緯・詳細については習得済みだしさ。
2020/12/05
宅急便にて石炭到着。
達筆な直筆でご丁寧なお便りと共に。
これかぁ〜!!
これが120年前に海に沈んだまま現世に蘇った正真正銘の石炭なのかぁ〜!!
手にとってしげしげと眺める。
感激!!
早速振り込みにて1,000円送金。
また現物は着払いでお願いしていたので送料1,050円也。
こうしてようやく竜馬遺品(!)収得の旅(鞆の浦編)が終了したのでした。
(おしまい)
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